脳を鍛える
2004年8月28日 玉井智与治

娘が通う楠京阪幼稚園は、「脳を鍛える」を教育の柱としています。そこで「脳を鍛える」とはどういうことかを考えたいと思います。私は大脳生理学の専門家でもなければ発達心理学を専門としているわけではありません。20年にわたる中学校学校現場での経験から私なりの見解を述べたいと思います。

まず、鍛えるという概念についてです。スポーツを始めようとすれば、個々の競技の技術を習得する前に、そのスポーツを楽しむための基礎体力(筋力等)をつけねばなりません。筋力を養う基礎練習無しには優れた技術を生かしたプレーを行うことはできません。およそ学習活動というものは、視覚や聴覚から受けた刺激を脳が受け止め、蓄積し整理し再生する過程を言うわけです。人間の身体のなかでこういったプロセスを掌っているのが脳なのです。脳の潤滑な活動なしには学習は成り立たず、何ら成果は上がらないわけです。

しかし、どうでしょうか。小学校以後(多くの幼稚園を含めて)の教育のなかに、脳を鍛えるという課程を置いているところがあるでしょうか。学校教育のなかでは、教科を通じての脳への刺激は与え続けられますが、脳そのものを鍛える場は存在しません。元来、幼児期の脳は遊びなど日常生活を通じて育つものと考えられていました。確かに乳児期の母子関係が脳の発達に影響を与えることは知られています。ただ問題は、この十数年母子関係を含めた家庭環境は大きく変化し、このことは家庭における教育力を低下せしめ、脳が充分に発達しないまま子どもが学齢期を迎えてしまうことにことにあります。ここにも小1プロブレム(小学校一年生から授業が成立しないという現象を指します)の背景があるのではないかと考えられます。

では、どうして「脳を鍛える」とう課程が軽視されてきたのでしょうか。日本の教育界では、脳について語ることは長年タブー視されてきました。すべての子どもは同質の脳を持っていて、学習の成果は本人の努力次第によって決まることが前提にされてきました。すなわち、成果が現れない(良い成績を得られない)のは努力が足りないからだと考えられていました。そのため、教師も様々な手段を尽くし、子どもに努力を促せてきました。もちろん子どもや教師や親のこうした努力を否定するつもりはありません。ただ、科学的に考えたとしたならば、鍛えられた脳とそうでない脳とに、同じ時間同じ刺激を与えた場合、得られる学習の効果は異なると考えるのが自然ではないでしょうか。

今日の学習指導要領が求める学力の柱となっているのが、「関心」「意欲」「態度」だとされています。ではなぜ「知識」「理解」よりもその前段階である「関心」「意欲」「態度」が重要視されるのでしょうか。それは、「知識」「理解」は脳の鍛えられ方によって得られる成果が異なり、本人の努力には限界があることが分かってきたためです。そのため、学習への意欲を失い(勉強嫌い)、不登校やいじめや怠学など問題行動へとつながっていくわけです。これが中学校ともなれば、記憶・思考・判断・表現とますます脳のより潤滑な活動が求められるわけですが、充分に鍛えられ発達した脳でなければ、脳への刺激の第一歩である「記憶」の領域でつまずきが生じ、それ以後の思考・判断・表現へと発展させることができず、授業が分からないとなってしまうわけです。その結果、授業エスケープや授業妨害などの問題行動を引き起こすことになってしまいます。私は、学校現場でたくさんこのような光景を目にしてきました。

現在では、教師は様々な方法手段を用いて、子どもの「関心」「意欲」を引き出そうとしています。しかし、教師が求める知的な事象に向けて「関心」「意欲」が生じるためには、相応に発達した脳が必要なことはいうまでもありません。知的の事象に「関心」を持つこと自体が、鍛えられ発達した脳がなせる業なのです。

幼児期のお子さんをお持ちのお父様お母様。人の脳がもつ力はひとり一人違うということ、それを認めることは決して差別にはあたらないこと、(もし差別になるなら、ひとり一人の体力の差を認めることが差別にあたります)脳の力はは鍛え方によって変わるということ、脳を鍛えるには幼児期から始めた方がいいということを知っていただきたく思います。

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