玉井家の由来
 十年前、祖父の信久が他界したことをきっかけに、玉井家の由来について調べる機会をもつことができました。。玉井の氏を名乗りはじめて、私(智与治)で五代目であり歴史はそうな長くはありません。父(一郎)からの話によると、玉井家は京都の公家である檜山(ひのきやま)家から分離しできたようである。檜山家は従三位の格式をもち、代々御殿医として宮中に仕えてきたと聞いています。父の実家では、幼少のころから京都真如堂にある檜山家の墓を祖先の墓として参拝してきました。。父の幼少のころは、少なからずとも檜山家とは交流はありましたが、今日に至っては全くなくなり、お互い親類としての認識はありません。父も今年79歳を迎え、玉井家のなかにも檜山家との関係を知るものも少なくなってきました。また、玉井家の由来について、まだまだ未開な部分があり、そこで玉井家の祖先である、檜山家との関係についてご存知の方がおられたらと思い、ネット上で公開するすることにしました。
 真如堂にある院(東陽院)で、ここが墓を管理している。 檜山家の墓です。
墓の裏側に刻まれた碑文である。ここに「玉井」なる文字が刻まれており、そのことを檜山家を祖先とし、玉井家とは縁戚に当たる根拠としてきたわけである。  この碑文は、檜山家の発祥の由来についてかかれたものであるが、藤原氏を祖先に持つ檜山家が、元和元年(1615年)に「紀伊玉井城」からでたと読みとることができます。
 さて「紀伊玉井城」なるものが、いったい何を示しているかである。戦国時代の城の文献には「玉井城」なるものは、見当たらない。ただ、紀伊山地の中には、「玉井」に関連する地名や物件が見当たる。そのうちのひとつが、奈良県十津川村の玉置山(たまおきやま)や玉置神社(たまおきじんじゃ)である。呼び名こそ「たまおき」ではるが、玉井に通じるものがあると考えられる。現在は奈良県に属するが、その昔、広義では紀伊に属していたものと推測される。また、玉置神社の宮司の話によれば、神社の近くには「玉置口」(たまいぐち)とよばれる地名が残っており、玉置と玉井は同一のものと考えてもよいのではないかと思われる。古代荘園制が栄えた頃、都の貴族(公家)が所有する荘園の管理を担ったものに「城」と名づけたのではないかと推測されている。
 そこで、檜山家と玉井家の家計図を作成した。歴史は幕末時に遡るが、次の二枚の家計図を見比べていただきたい。左は、玉井家で右は檜山家のものである。
 玉井家檜山家双方に「元長」(「げんちょう」と読むのか「もとなが」と読むのかは不明)なる人物が存在する。どちらも、その人物により家系が始まっている。檜山家の元長には妻(曾衛)がいるが、玉井家の元長にはいない。子どもの数も異なるが、「コフシ」「コフミ」なる人物がおり、同一人物ではないかと考えられる。そこで、推測ではあるが、両家の家系図に存在する「元長」なる人物は同一人物と考えるの自然である。
 そこで、なぜ一人の人物が、檜山・玉井の姓を名乗ったのかである。時は幕末であり、京の都は尊皇攘夷や倒幕やらで混乱していた。公家である檜山家も公武合体の波を受け、(実際元長の妻は、伏見の勘定奉行の娘と聞いている)次の時代が公家にとってどんなものになるか不明であるため、元長なる人物は、自らも「玉井」の姓を名乗り始める一方、子のひとりにゆかりのある「玉井」の姓を名乗らせ、万一檜山家が途絶えた場合でも、子孫が残るよう願ったのではないかと思われる。また、元長自身も京都をはなれ、大阪は堂島に移り住み医者を開業したらしい。また、父の話によると、堂島の「適塾」にも通い蘭学に励んだらしい。その後、「天満焼け」という堂島一体を襲った大火により、堂島を去ったらしい。
玉井家の家系図
檜山家の家系図
 最後に、現在檜山家の当主であられる檜山久視氏は兵庫県西宮市にご在住で、医師をなさっていると聞いております。もしこのページが現在の檜山家の皆様にとってご迷惑をおかけするようなことがございましたらお申し出で下さい。また、檜山家の皆様をはじめ、玉井家と檜山家とについてご存知の方がおられましたら是非ご連絡ください。
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